昭和50年木曽森林鉄道廃止のニュースはテレビ番組でも報道された。
その後ひっそりと資材運搬の為に存続していた区間も廃止となり日本から森林鉄道は消滅してしまったと思っていた。
しかし昭和57年初頭の頃に、テレビ番組で屋久島の森林鉄道が紹介されてその存在を知った。
もう森林鉄道は過去のものと思っていた私は驚き喜んだ。
その後に乏しい情報を必死で収集した。
それにより、屋久島に存在している森林鉄道は安房港を起点としていた安房森林軌道であること、
安房港から苗畑までの間は廃止となり人目に触れなくなってしまったこと、
苗畑から荒川までは屋久島電工が施設の保守管理を行う為に軌道を利用していること、
荒川から先は近年まで屋久杉の伐採を行っていて軌道も運材のために使用されていたこと、
しかし屋久杉の伐採は現在は行われていないことがわかった。
それ以上の細かい情報はわからなかったのでその時点で実際に運行されているのかどうかは分からなかった。
当時高校生だった私にとって屋久島は遠くの地ではあるが、運行されている可能性がある以上何が何でも行くしかないと計画を立てた。
そして昭和57年の夏に同志の友人と2人で屋久島を訪問した。
夜行の急行『かいもん』で西鹿児島に着く。
そこから市電に乗り換えて名山桟橋まで行き、フェリーに乗って屋久島へ向かう。
『洋上アルプス』と形容される島の姿を船上から見ようと思っていたが、夜行列車乗り継ぎの疲れで眠っているうちに屋久島に着いてしまった。
宿は安房にとってあった。
島に着いて取りあえず宿に行くと、玄関先に『さよなら運材列車』のヘッドマークをつけた森林鉄道の写真が飾ってあった。
私たちは驚いて宿に荷物を置くと、現在荒川から先の軌道の運行を委託されているという武田産業を訪問した。
私たちは武田産業の事務所を訪問して列車の運行について尋ねてみた。
運が良いことに、明日荷物を運び上げる列車が1本走るという。
運材列車は9月上旬まで走らないとのことだった。
運材列車を見ることが出来ないのは残念だが、列車が走る姿を見ることは出来そうだ。
説明してくれた方に丁寧にお礼を述べて武田産業を後にした。
日没まではまだ時間があるので私たちは安房森林軌道の現在の起点である苗畑へ行ってみることにした。
苗畑へ向かう道の右手には昔、安房森林軌道が安房港まで通じていたときの廃線跡と見られる痕跡があった。
苗畑から荒川までは屋久島電工がダムなどの管理に軌道を使用しているらしい。
苗畑には屋久島電工所有のDLとモーターカー・台車が留置されていた。
私たちは喜んでそこに止まっている車両を撮影した。
私たちは一通り車両の撮影を終えると苗畑を後にして宿へ向かい、明日の荒川行に備えることにした。
安房森林軌道の起点となっている荒川まではバスは通ってない。
よって荒川までの交通手段はタクシーに頼らざるおえない。
予約してあったタクシーは宿に7時を少し回ったころに来た。
たまたま同宿していた人が登山の為に荒川まで行くというのでタクシーに同乗することになった。
荒川には8時に着いた。
今日走る列車は荒川を8時30分に出発するという話だった。
私たちはその列車を小杉谷付近で狙うことにした。
レールの上を歩いて小杉谷を目指した。
荒川から30分ほど歩いて荒川についた。
荒川を渡る鉄橋の手前はデルタ線になっていて直進すると石塚線だ。
石塚線は廃止となっていて今は滅多に列車は入らないらしい。
私たちはデルタ線を右に進み荒川を渡る。
橋を渡りきった右側は少し開けていてそこでテントを張っている人たちがいた。
その人たちは高校総体の役員の人たちで今日・明日の2日間はここ屋久島で登山競技が行われるとのことだった。
私はテントの張られている場所をすり抜けて河原に降りて、そこから列車を待つことにした。
私たちは撮影後列車の後を追いかけた。
列車は撮影した鉄橋から約2km先の小杉谷荘跡に止まっていた。
ここには作業小屋があり列車に積んであった荷物を降ろしていた。
今日の列車の運行はここで終わりだそうだ。
またここから先の線路には列車は入らないとの事だった。
ここに止まっている列車は15時頃に荒川に戻るそうだ。
それまではまだ時間があるので私たちはこの先の線路をたどって行くことにした。
線路はカーブを重ねながら高度を上げて行く。
途中1本の沢に縫い付けるようにティンバートレッスルが3重にかかっていた。
ここを過ぎると勾配が目に見えてきつくなってきた。
荒川から約9kmでウィルソン株分岐点に着いた。
私たちはとりあえず軌道を直進してみることにした。
その先は登山者も入らないらしく荒れ果てていた。
しばらく行くと視界が開けて右手の斜面は材木が散乱していた。
かつての集材所跡であろうか?
左手は川が行く手をさえぎり軌道はそこでポイントで2手に分かれてそれぞれ終わっていた。
折角ここまできたのでウィルソン株を見てから帰路に着いた。
途中雨に降られてビショビショになってしまったが、武田産業の方の好意により小杉谷荘跡から荒川まで列車に乗せていただいた。
列車は帰りは単機だったので私たちはDLのボンネットの上に乗った。
DLのエンジンの振動を直接感じられる貴重な体験だった。
列車は明日も走るという。
荒川を8時に出発するそうだ。
お礼を述べて予約してあったタクシーで宿に戻った。
朝6時過ぎに予約のタクシーが来た。
雲一つ無い良い天気の中を荒川へ向かう。
荒川へは7時に着いた。
私たちは小杉谷で列車の撮影をするために軌道上を歩き始めた。
しばらく歩いたところで後ろから車のクラクションに似た音が聞こえた。
一瞬列車の時刻を間違えたかとあせりながら後ろを振り返ると緑色のモーターカーが後ろから追いかけてきた。
山案内人の方が所有している自家用モーターカーである。
私たちは軌道脇に身を寄せてモーターカーをやり過ごした。
小杉谷へは7時30分頃着いた。
河原へ降りてカメラを構えて列車の来るのを待った。
小杉谷伐採所付近でうろうろしていると突然黄色いDLが姿を現した。
武田産業が現在使用しているDLは1両だけの筈なのに何故?
軌道の端に身を寄せてカメラを構える。
ファインダーを通して確認してみると屋久島電工所有のDLであった。
屋久島電工のDLの後ろにはトロッコが2両牽かれていた。
私たちは写真が撮りたくて急いで列車の後を追った。
どこまで行くのかは分からないがとにかく追ってみた。
列車の速度は意外と速くてなかなか追いつきそうで追いつかなかった。
列車は3重ティンバーの1つ目のティンバーを渡った辺りで止まっていた。
ここで何をするのだろう?
後ろから観察してみるとどうも様子がおかしい。
近寄ってみて見るとDLが脱線していた。
列車に乗っていた人たちが材木を梃子にしてDLを持ち上げて復旧作業をしていた。
私たちは先回りしてその先の橋梁で列車が来るのを待った。
私たちは屋久島電工のDLを撮影した後、再び小杉谷伐採所付近に戻り帰りの列車の出発を待つことにした。
列車の出発までまだまだ時間はある。
時間をつぶしていると荷物を積んだトロッコが自重で山を下ってきた。
屋久島電工のDLと2両のトロッコは高校総体の荷物を運ぶために運行されたものだった。
私たちは高校総体が催されていることは知っていたが、そのために臨時に列車が運転されるとは思わなかった。
普段走らない場所で屋久島電工のDLを見ることが出来たのは運が良かった。
ようやく武田産業のDLが山を下る時間が近づいてきたので私たちは撮影場所を求めて山を下り始めた。
列車は遅かったので追いかけながら何枚もシャッターを切ることができた。
しばらく行くと列車が止まってしまった。
どうしたのだろう?と思っているとDLの運転手が『乗って行きな!』と言っている。
私たちは言葉に甘えて運材台車の上に乗せてもらった。
列車は途中で入れ替えをしてDLを先頭にして荒川を目指した。
運材台車に乗っていると体にレールの振動が直接響いた。
私たちを乗せた列車は荒川に着いて運材台車を切り離すと、DLは単機でまた山を登っていった。
私たちは関係者の方々に丁寧にお礼を述べて迎えに来たタクシーに乗り宿へと向かった。
今日は安房の貯木場に行ってみることにした。
貯木場にレール跡と廃車体があるという情報を得たからだ。
貯木場の事務所で見学手続きを行い貯木場の中を探してみるとはたしてレールの一部とボギー貨車の廃車体・運材台車が何両か転がっているのを見つけることができた。
撮影を終えて帰ろうとすると製材所の方が私たちに手招きをしている。
行ってみると屋久杉の端材を『表札にでもしたら』と言って持たせてくれた。
私は表札に丁度よさそうな大きさの材木を頂きお礼を述べて製材所を後にした。
私たちは今回の屋久島訪問にあたり、安房森林軌道が実際に動いているかも分からずに半ば行き当たりばったりで訪問した。
ところが運が良いことに多くの列車が運行されている姿を見ることが出来た。
高校総体の荷物運搬という本来の林鉄の役目からは外れたものだったが、それでも生きている林鉄の姿を見れたことは収穫だった。
また今回お会いした方々は親切な人ばかりだった。
私達の屋久島訪問に際して関係者の方々には大変感謝している。
私たちは屋久島を去る日の朝、お世話になった武田産業を訪問して丁寧にお礼を述べて屋久島を後にした。
多くの実りがあった私たちの屋久島訪問であった。