筑波鉄道は土浦~岩瀬間40.1㎞を結んでいる軌間1067㎜、全線が非電化の鉄道だった。
茨城県新治・筑波・真壁地域を経由して国有鉄道常磐線と水戸線を連絡する路線として計画された。
明治44年4月20日に軽便鉄道法により免許の交付を受けて、大正3年4月11日に会社が設立された。
しかし会社設立後に経由地の選定、用地買収、動力の選定(電化か非電化か)などの問題から着工が遅れた。
大正5年2月にようやく工事は土浦側から始まった。
大正7年4月17日に土浦~筑波間20.2kmが開通、同年6月7日に筑波~真壁間10.0km、同年9月7日に真壁~岩瀬間9.9kmが開通して全線40.1kmが開通した。
しかし全線が開通して線路は繋がったものの機関車の購入交渉がうまくいかず、鉄道院の認可が得られなかった為に正常な運行はできなかった。
翌年大正8年2月に機関車が増備されて正常な運行が行われるようになった。
大正末期に再び電化の計画が持ち上がり、併せて岩瀬~宇都宮間の電気鉄道の免許申請が行われて昭和3年5月26日に鉄道敷設免許が交付された。
しかし全線の電化計画に対しては認可が下りなかった。
昭和9年2月には蒸気機関車牽引の列車が土浦~岩瀬間9往復、その他区間運転が5往復運行されていた。
昭和12年5月に気動車が3両入線して内燃動車の使用が始まった。
(運行を開始したガソリンカーはキハ301型301~303の3両、筑波鉄道が発注した唯一のガソリンカー)
ガソリンカーは昭和18年3月に燃料入手難から代燃装置を取り付けた。
昭和20年3月30日に、現在の関東鉄道常総線の前身である常総鉄道が筑波鉄道を合併して、社名を常総筑波鉄道株式会社と改名、常総筑波鉄道筑波線となった。
昭和40年に常総筑波鉄道は鹿島参宮鉄道と合併して関東鉄道になった。
関東鉄道筑波線は経営合理化のために、昭和54年4月1日に鉾田線とともに関東鉄道から分離されて、再び筑波鉄道として独立することになった。
筑波鉄道は東京近郊にありながらも非電化でローカルムードがある路線だった。
沿線に筑波山という観光資源を有していて、旅客需要もそこそこあるのではないかと思っていた。
しかし沿線住民や観光客の移動手段はほとんどが自動車で鉄道の利用客は少なかった。
需要を喚起するべく様々な施策が行われたが経営環境は好転せず、昭和62年3月31日に全線が廃止となった。