明治時代の金毘羅詣でが盛んだった頃、下津井と丸亀を結ぶ航路は本州~四国間の重要な航路だった。
明治34年に宇野線岡山~宇野間が開通すると、四国連絡のメインルートは高松~宇野となってしまった。
それに危機感を覚えた下津井の有力者たちの出資により下津井軽便鉄道が計画・設立された。
下津井を鉄道で結ぶことにより下津井の四国連絡口としての役割維持に努めた。
大正2年11月11日に軌間762ミリメートルの軽便鉄道として茶屋町から児島(開業時は味野町といった)までが開業した。
児島から先の下津井までは鷲羽山周辺での工事が手間取ったが、翌年の大正3年3月15日に開通して茶屋町~下津井の全線が開業した。
下津井軽便鉄道では倉敷への延伸計画も存在していて大正2年に計画されたが実現されないままに大正6年に免許が失効した。
大正11年11月28日に社名を下津井鉄道(株)に変更した。
その後大正14年に軌間の1067ミリメートルへの改軌および電化計画が浮上した。
また同時に宇野線の茶屋町~岡山間を電化して下津井から岡山まで直通列車を走らせる構想だった。
これは岡山から下津井に行くためにはどうしても茶屋町での乗り換えが必要であり輸送上のネックになっていたのでその手間をなくすためのものだった。
しかし鉄道省が宇野線の電化を拒否したためにこの計画は取りやめになった。
もしこの計画が改軌だけでも実行されていたらその後の下津井電鉄の運命ももっと変わったものとなっていたのではないだろうか?
戦時中は燃料の入手難などから鉄道の運行中止等紆余曲折があった。
戦後の昭和24年5月1日には茶屋町~下津井間全線が電化された。
それに伴い昭和24年8月20日に社名を下津井電鉄(株)に変更した。
車両の近代化や合理化を行い鉄道の存続に努めていたが、その後ご多分にもれずモータリゼーションの波にのまれて旅客数が減少、昭和47年3月に茶屋町~児島間が廃止された。
児島~下津井間は代替交通機関がなかったので存続したが他の鉄道には接続しない孤立した鉄道になってしまった。
下津井電鉄は鷲羽山観光や瀬戸大橋開業による旅客の増加に期待していたがその願いもかなわず平成2年12月31日に残った児島~下津井間も廃止となってしまった。