蒲原鉄道は磐越西線の五泉から村松を通り信越本線の加茂までを結んでいた。
軌間は1067ミリメートルで全線600ボルトで電化されていた。
鉄道駅から離れていた村松に鉄道を通す目的で大正12年10月20日に五泉~村松間が開業した。
その後昭和5年7月22日に村松~東加茂間が開業、同年10月20日に東加茂~加茂間が開通して全線開通した。
私が訪問し始めた昭和58年頃には運転される列車は基本的には1両のワンマン運転だった。
五泉~村松間は通勤通学客が比較的いて、朝夕には3両編成の列車が運転されていた。
しかし村松~加茂間は道路の整備と過疎化によりだいたいガラガラだった。
列車番号は通しだったが、運行は加茂~村松と村松~五泉に分かれていた。
そのため加茂から五泉またはその逆に行くには村松で乗り換えが必要だった。
有人の駅は加茂、東加茂、七谷、大蒲原、村松、五泉の6駅で閉塞の取扱いが行われていた。
また加茂と五泉を除く4駅では列車の交換が行われていた。
その他の中間駅は全て片面ホームの無人駅だった。
無人駅の各駅の照明は白熱灯が使われていて日中の明るい時もこうこうと付いたままだった。
この照明は架線から直接その電源を得ていて架線に電気が流されると点灯する仕組みになっていて少々乱暴な配線ではあるがわざわざ誰かが駅に照明をつけに行く手間もなくその合理性に感心した。
ローカルムードにあふれてファン的には好ましい雰囲気の鉄道だったがそれ故に利用客は少なく加茂~村松間は昭和60年3月31日に廃止となった。
残された村松~五泉間も平成11年10月に廃止となった。
蒲原鉄道の加茂駅は信越本線加茂駅の西側に専用ホームがあった。
このホームへ行くには一旦信越本線の下りホームへ行きこのホームから蒲原鉄道のホームへの通路を渡っていく構造になっていた。
そのため改札口は国鉄と共用となっていたが加茂駅西口は蒲原鉄道が業務を行っていて国鉄の乗車券発売等も委託されて行っていた。
蒲原鉄道のホームは島式でホームには小さな待合室があった。
蒲原鉄道のホームの長岡側には液体ガスの荷役設備があったが昭和59年頃には撤去された。
蒲原鉄道は加茂駅を出るとすぐに信越本線と寄り添って加茂川を渡る。
加茂川を渡ると蒲原鉄道の線路は信越本線の線路から左に離れる。
築堤を登りながら右にカーブして信越本線を越えたらすぐに陣ヶ峰駅である。
陣ヶ峰を出るとほどなく短いトンネルがある。
トンネルをぬけると下り勾配となり街中に入ると東加茂である。
ここは有人駅で交換設備を備えている。
昭和58年頃には東加茂では列車の交換は行われていなかったが、閉塞の取り扱いは行われていた。
駅舎は立派なもので蒲原鉄道観光センターの加茂営業所も兼ねていた。
東加茂を出ると駒岡・狭口と長閑な田園風景の広がる景色を眺めながら小さな停留場が続く。
狭口の待合室の中には絵馬が沢山掛けられていた。
これは蒲原鉄道の増収策の一環で狭口駅の入場券が『狭い口に入る』ということで受験や試験のお守りになるという触れ込みで売り出したものである。
狭口駅は無人駅なので販売はしていなかったが有人駅で販売していた。
狭口を出てしばらくすると加茂川に寄り添って進む。
対岸には国道が通っているが、丁度蒲原鉄道を対岸から眺められる位置に夏場は茶屋が開いていた。
夏場の炎天下の中撮影していて乾いた喉を、この茶屋で売っていた清水で冷やされた飲み物で癒やした思い出がある。
加茂川から離れて左にカーブをしたところが七谷である。
ここは交換駅で有人駅である。
七谷は如何にも山間の小駅といった風情が魅力で時間がゆったりと流れている感じがした。
駅前には桜の木がありいつか満開の桜の蒲原鉄道の取り合わせを撮りたいと思っていた。
駅舎は木造の風情がある建物で出札窓口や改札口に歴史が感じられた。
七谷を出ると少しの間砂利道が平行しているのだが、道と線路の間には仕切るものが無く併用軌道の様な感じがして好ましかった。
七谷から冬鳥越にかけては登り勾配が続き、電車はモーターを唸らせながら進んでいった。
昭和60年の村松~加茂間が廃止になったときの最終列車に乗車したときは架線電圧の降下の為か、何回も止まりかけて室内灯が暗くなった記憶がある。
峠道を登っていって右手にスキー場が見えてくると冬鳥越である。
駅前にはすぐスキー場がある。
規模はあまり大きくなくファミリー向けの様な感じだった。
このスキー場は蒲原鉄道の経営だったと思う。
冬鳥越を出るともう一登りして短いトンネルをくぐり築堤を進むと築堤上に土倉駅がある。
土倉を出て右手に金割鉱泉の立派な建物が見えてくると程なく高松駅に着く。
高松は曲線上に一面のホームが有るだけの駅だったが撮影をするのに適した良いムードの駅だった。
高松を出るとすぐに道路橋をアンダークロスして坂を登り田畑の広々とした景色の中を行き、しばらくすると大蒲原駅に着く。
ここは交換可能な有人駅である。
大蒲原から先は広々とした田畑の中を、遠くに山々を眺めながら寺田・西村松と停留場が続く。
段々と民家が増えてきて街中に入ると間もなく村松だ。
村松はこの周辺では大きな街で、陸軍の歩兵連隊がおかれていたそうだ。
また蒲原鉄道の本社や車庫もここにある。
蒲原鉄道の運転系統はここ村松で分かれており、加茂から五泉まで直通の列車は無く、村松で乗り換えとなっていた。
駅舎は本社も兼ねたコンクリート造りの立派なものだ。
この建物は現在もバスの営業所などで使われている。
蒲原鉄道の車庫は木造の歴史を感じさせるものだった。
倉庫替わりに廃車体が使われていた。
いつも生い立ちの様々な車両達がひしめいていて時間を忘れて見学したものだ。
村松からは交通量の多い県道と並行して一直線に五泉を目指す。
線路も直線の為か電車もモーターを唸らせながら結構なスピードで走っていた。
途中に今泉駅を挟んで、家々が密集している間を入っていき磐越西線が見えてくると五泉に着く。
五泉は磐越西線のホームと平行して独立した島式2面のホームがある。
跨線橋は磐越西線のものと共用だが駅舎は独立した蒲原鉄道専用のものが国鉄の駅舎と並んで建てられていた。
村松と五泉の間は旅客数が比較的多く、朝夕には増結された3両編成の車両も走っていた。
そのため加茂~村松間が廃止になった後もこの区間は平成11年10月まで存続していた。
昭和5年5月日本車両製
村松~東加茂間開業用に製造された生え抜きである
全長12,432mm 2扉半鋼製車
主電動機は55.96KW×2の直接制御方式
モハ12はワンマン化改造がされている
大正12年7月に蒲原鉄道開業に際して製造されたデ1型がルーツ
昭和27年10月に東京電気工業により車体を更新すると同時にモハ21から台車を振り替えている
(モハ21は名鉄モハ455→蒲原鉄道デハ101→モハ21→廃車となっている)
その後昭和37年6月に西武所沢工場で車体の不燃化工事、総括制御方式、ワンマン化改造が行われた
全長15,150mm 2扉半鋼製車 主電動機は55.96KW×2
モハ11・12と同時に製造されたモハ13の改造車
昭和29年4月に東京電気工業により改造、車体は新製してモハ13からは台車のみ流用していた
改造当初はモハ31と同一の車体で2扉、内装はクロスシートだったが、昭和35年6月に自社工場で車体を1550mm延伸して3扉化、内装をロングシートとして総括制御方式に改造した
全長16,700mm 主電動機は55.96KW×2
大正12年に蒲田車輛で制作されたデ2がルーツ
モハ13の台車をモハ41に提供して余剰となった車体をデ2に乗せ換えて誕生した
モハ11・12とは同一の車体を持つ
ワンマン化改造は行われずあまり活躍する姿を見れなかった
全長12,432mm 主電動機は55.96KW×2
武蔵野鉄道サハ5856として製造された
その後西武鉄道クハ1232→クハ1233となった
昭和33年に西武所沢工場で両運転台の電動車に改造されて蒲原鉄道に入線した
17m級3扉の半鋼製車で蒲原鉄道では一番大きい車両だった
総括制御車でワンマン化改造が行われていた
全長17,000mm 台車はDT10 主電動機は55.96KW×2
昭和2年3月に武蔵野鉄道デハ1231として日本車両で製造された
その後西武鉄道モハ221→モハ215を経て制御車化されてクハ1211となった
昭和40年7月に西武所沢工場で再電動車化と両運転台化されて蒲原鉄道に入線した
3扉の半鋼製車 ワンマン化改造が行われていた
五泉方の前面には幌がついていて加茂方と印象が異なっていた
全長16,930mm
主電動機は63.4KW×2で蒲原鉄道で最大だった
明治38年に京浜電気鉄道デ15として天野工場で製造された木造車がルーツ
その後デハ5112→デハ112を経て昭和26年3月まで使用された
大師線昇圧に伴い廃車となったが、日本鉄道自動車に引き取られて車体を半鋼製化改造、機器を改修して越後交通にモハ3002として入線した
越後交通長岡線で使用されていたが余剰となり昭和47年12月に蒲原鉄道に入線した
全長15,850mm 2扉 主電動機は44.76KW×4
大正14年3月に名古屋鉄道モ451として日本車両で製造された木造車がルーツ
昭和22年12月に山形交通に譲渡、昭和31年7月に日本車両で半鋼製化、昭和40年2月に西武所沢工場で不燃化工事と総括制御化された
山形交通三山線で活躍していたが同線廃止に伴い昭和50年12月に蒲原鉄道に入線した
全長12,944mm 2扉 主電動機は44.76KW×4
昭和10年に国鉄キハ41120として川崎車輌で製造された
昭和24年10月に蒲原鉄道に入線、昭和25年5月に自社工場で制御車に改造された
昭和36年1月に西武所沢工場で前面や内装を改造した
昭和42年6月に西武所沢工場で総括制御化の工事などが行われた
全長16,350mm 2扉 半鋼製車 台車は気動車時代のTR26 車内はクロスシートとなっている
昭和5年5月に日本車輌で製造された
WH製の凸型機を模してつくられた
直接制御方式 全長9,180mm 主電動機は56KW×4 自重25t