信越本線横川~軽井沢間は碓氷峠があり鉄道の難所だった。
その急勾配を越える為に、開通当初はアプト式が導入された。
しかし輸送上のネックとなっていたので昭和34年に輸送力向上の計画が立てられた。
複線の新線をそれまでの線路に沿って建設して、粘着運転を行うというものだった。
横川~軽井沢間は最急勾配66.7パーミルという過酷な条件だった。
その為に同区間を運転する機関車が新たに開発された。
横川~軽井沢間を含む信越本線を通し運転できる機関車としてEF62が開発された。
横川~軽井沢間を通過する列車全てに連結する補機としてEF63が開発された。
試作機としてEF62、EF63がそれぞれ1輌ずつが昭和37年に誕生した。
EF62とEF63は協調運転が行われるように設計されて、引張性能と速度性能は統一されていた。
建設途上の新線区間で性能試験を行いその結果をフィードバックして量産化、昭和44年までに54両が製作された。
Ef62は粘着力向上のために電気的軸重補償や独立回路方式発電ブレーキ等を採用していた。
また軽量化の為に新性能機では唯一のC-C配置となっていた。
EF62は信越本線の主力機として、信州地方で浅間山を望みながら活躍していた。
しかし次第に信越本線の旅客列車は電車化が進み、また貨物列車は横川~軽井沢間の運転を止めて運転区間が縮小されていった。
それに伴いEF62は余剰となってしまった。
昭和59年2月ダイヤ改正時に一部のEF62は下関運転所に転属となった。
これは東海道・山陽線で活躍していたEF58の老朽化が進んだ為に、これの置換えを目的としての転属だった。
勾配線区用として開発されたEF62が平坦線区の東海道・山陽線で活躍するのは場違いな感じだが、EF58が主に担当していた荷物列車の運用では牽引機に暖房供給装置の搭載が必須だった為、EGを搭載していたEF62に白羽の矢が立てられたのであった。