流電一族・最後の3両

(昭和56~58年)




クモハ53008

飯田線で活躍するクモハ53008
半流線形のスタイルだが、立派な流電の一員

城西~向市場
(昭和57年5月)









クモハ53007

飯田線の旧型国電の中で、張り上げ屋根の車体が目をひいたクモハ53007
是非とも先頭に立つ姿を見たかったのだが、なかなかその機会に恵まれなかった

伊那松島
(昭和56年5月)









クモハ43810

大糸線のクモハ43810
合の子の中でただ1両、最後までクモハ43形のままだった

海ノ口~簗場
(昭和56年7月)






私が初めて飯田線を訪れたのは昭和54年だった。
当時の飯田線では伊那松島機関区所属の旧型国電がまだ多く活躍していたが、前年に豊橋機関区所属の旧型国電が80系に置き換えられた。
それによりクモハ52を含む流電一族の殆どが廃車になった。
流電一族ではかろうじて3両の合の子が飯田線と大糸線に残るのみだった。


流電について

クモハ52は関西急電専用車両として登場した。
関西急電は現在の新快速のルーツとなる列車で、その俊足ぶりを誇っていた。
京阪神間は古くから私鉄との競合区間だった。
私鉄では電車による軽快なサービスが提供されていた。
それに対抗するべく京阪神間の電化計画が建てられて、昭和9年7月に吹田~須磨間が電化された。
そして京阪神間を結ぶ速達列車として急行電車の運転を開始、急行電車用の車両として2扉クロスシートの42系電車が登場した。
昭和11年3月に関西急電専用の電車として第一次流電1編成4両が誕生した。
モハ52は前頭部が流線形の特徴あるスタイルで、『流電』と称された。
車体は溶接仕上げのノーシル・ノーヘッダーで張り上げ屋根、下回りはスカートで覆われいて斬新でスマートなスタイルをしていた。
(ここではモハ52及びその設計思想に基づいて製作された一連の車両を流電一族と記述した。 具体的にはモハ52、サロハ46018、サロハ66、サハ48029~033、モハ43038~041を指す。)
モハ52は計画時にはモハ43の追番号となるはずだったが、歯車比をモハ43の2.26から2.04に変更して新形式とした。
モハ52+サハ48+サロハ46+モハ52の4両固定編成で運転された。

【第一次増備車】
モハ52001-サハ48029-サロハ46018-モハ52002
(昭和12年9月サロハ46をサロハ66に改造後)
モハ52001-サロハ66020-サハ48029-モハ52002

昭和12年10月には電化区間が京都まで延伸されて、関西急電の運転区間は京都~大阪~神戸間に延伸された。
それに伴う急行電車の増発に対応するために、昭和12年3月に第二次流電となる2編成8両が増備された。

【第二次増備車】
モハ52003-サロハ66016-サハ48030-モハ52004
モハ52005-サロハ66017-サハ48031-モハ52006

斬新なスタイルが目を引いたモハ52であったが、現場には不評だった。
乗務員扉が無く、床下のスカートは検査の邪魔になった。
その為、昭和12年8月に製作された流電第三次増備車は前面形状を貫通路付きの半流線形にしてスカートを廃止した。
主電動機の歯車比はモハ52と同じ2.04とした。
新しく登場した車両はモハ43の追番号が付されて『合の子』と呼ばれた。
流電第三次増備車の『合の子』は2編成8両が製作されて、流電一族は5編成20両となった。

【第三次増備車】
モハ43039-サロハ66019-サハ48032-モハ43038
モハ43041-サロハ66018-サハ48033-モハ43040

流電一族は関西急電の花形として京阪神間を疾走した。
しかし戦火が激しくなり、昭和17年11月には戦時体制のために急行電車の運転が取りやめになった。
戦時中は流電も大量輸送を担う一員として活躍した。
戦時中にモハ52006とモハ43038の2両が戦災の為に廃車となった。
終戦後の昭和24年には京阪神間の急行電車の運転が復活した。
6月1日にはモハ52が復活、その後に合の子も復活した。

【急電復活後の編成(昭和24年9月)】
モハ52001-サハ48032-サハ48029-モハ52002
モハ52003-サハ48035-サハ48033-モハ52004
モハ43039-サロハ66018-サハ48034-モハ43040

関西急電が復活した翌年の昭和25年8月に、関西に80系の新製配置が始まった。
関西急電の運用を80系に譲って、流電一族は中間車の一部が横須賀線に、その他の車両は阪和線に転属となった。
阪和線に転属した流電は特急電車の運用にも就いた。
モハ52は阪和線転属後に主電動機をMT30(128kw)に交換、乗務員扉を新設して屋根を普通屋根に改造された。
合の子のモハ43の3両中2両は昭和28年に主電動機をMT30に交換してモハ53形に改番した。

モハ43041→モハ53007
モハ43040→モハ53008

モハ53は昭和29年に車体更新をしたが、モハ53007は張上げ屋根のまま残った。
阪和線の流電一族は昭和32年に全車が飯田線に転属となった。
モハ52とモハ53は飯田線入線に際して歯車比を2.87に変更された。
流電一族の中で唯一モハ43形で残っていたクモハ43039は昭和39年に低屋根化改造してクモハ43810に改番、身延線に転属となった。

クモハ43039→クモハ43810

クモハ43810は昭和50年3月に大糸線に転属となった。

【昭和53年8月時点の流電一族配置】

所属車号
豊橋機関区クモハ52001 クモハ52002 クモハ52003 クモハ52004 クモハ52005 サハ48034
豊橋機関区中部天竜支区クハ47151
伊那松島機関区クモハ53007 クモハ53008 クハ47153 クハ47155
松本運転所北松本支所クモハ43810


ローカル輸送で余生を送っていた流電一族だったが、飯田線で活躍していた11両中9両が昭和53年11月に廃車となった。
昭和25年に横須賀線に転属となった中間車は改造や転属の後、一部を除いて昭和52年までに廃車となっている。
(サハ48034だけが飯田線に転属の後、昭和53年11月に廃車となっている。)
これにより関西急電の遺伝子を持つ流電一族の生き残りは合の子のみとなり、飯田線にクモハ53007とクモハ53008、大糸線にクモハ43810の3両を残すのみとなった。

流電一族の経歴

モハ52001→クモハ52001(昭和34年6月称号改正)→(昭和53年11月廃車)
モハ52002→クモハ52002(昭和34年6月称号改正)→(昭和53年11月廃車)
モハ52003→クモハ52003(昭和34年6月称号改正)→(昭和53年11月廃車)
モハ52004→クモハ52004(昭和34年6月称号改正)→(昭和53年11月廃車)
モハ52005→クモハ52005(昭和34年6月称号改正)→(昭和53年11月廃車)
モハ52006→戦災の為廃車
モハ43038→戦災の為廃車
モハ43039→クモハ43039(昭和34年6月称号改正)→クモハ43810(昭和39年低屋根化)→(昭和57年廃車)
モハ43040→モハ53008(昭和28年主電動機交換)→クモハ53008(昭和34年6月称号改正)→(昭和59年廃車)
モハ43041→モハ53007(昭和28年主電動機交換)→クモハ53007(昭和34年6月称号改正)→(昭和58年廃車)
サロハ46018→サロハ66020(昭和12年9月便所取付)→サハ48036(昭和18年サハ化)→クハ47025(昭和32年クハ化)→クハ47151(昭和34年改番)→(昭和53年11月廃車)
サロハ66016→サハ48034(昭和18年サハ化)→(昭和53年11月廃車)
サロハ66017→サハ48035(昭和18年サハ化)→サハ58050(昭和38年3扉化)→(昭和51年9月廃車)
サロハ66018→クハ47021(昭和26年クハ化)→クハ47153(昭和34年6月改番)→(昭和53年11月廃車)
サロハ66019→クハ47022(昭和26年クハ化)→クハ47155(昭和34年6月改番)→(昭和53年11月廃車)
サハ48029→サハ58000(昭和39年3扉化)→(昭和51年9月廃車)
サハ48030→サハ58020(昭和39年3扉化)→(昭和52年3月廃車)
サハ48031→サハ58021(昭和39年3扉化)→(昭和52年3月廃車)
サハ48032→サハ58010(昭和39年3扉化)→(昭和51年10月廃車)
サハ48033→サハ58011(昭和39年3扉化)→(昭和51年6月廃車)








クモハ53008

クモハ53008
車体はクモハ52と同じ側面に、半流線形の前頭部

場所不詳
(昭和56年5月)









クモハ53008

クモハ53008
客室窓は第二次増備車と同じ広窓になっている

辰野
(昭和56年5月)









クモハ53008

クハ47と手を組んで活躍するクモハ53008

大海~鳥居
(昭和57年4月)









クモハ53008

クモハ53008

城西~向市場
(昭和57年5月)









クモハ53008

クモハ53008を先頭にした4連が伊那谷を行く

高遠原~七久保
(昭和57年2月)









クモハ43810

大糸線で活躍していたクモハ43810
運転室上の通風器がそのまま残されていた

場所不詳
(昭和56年5月)









クモハ43810

クモハ43810
パンタ部分の屋根が身延線入線時に低屋根化されている
大糸線の旧型国電終焉まで活躍した

松本
(昭和56年5月)









飯田線の旧型国電の中で、張上げ屋根の合の子クモハ53007は一際目を引いた。
飯田線には足繁く通ったが、クモハ53007が先頭に立つ姿をなかなか見ることができなかった。
飯田線の旧型国電が引退を目前に控えた昭和58年、やっとクモハ53007が列車の先頭に立つ姿を見るチャンスがやってきた。






クモハ53007

中央本線の区間運転に就くクモハ53007
ようやく撮影することができた

辰野
(昭和58年2月)









クモハ53007

中央本線223M
下諏訪を出発して茅野に向かう

下諏訪
(昭和58年2月)









クモハ53007

にわかに降り出した雪の中をクモハ53007を先頭にした6連がやってきた
区間運転とはいえ中央本線を走る姿は堂々としていた


下諏訪~岡谷
(昭和58年2月)









クモハ53007

この日の運用を終えて入庫したクモハ53007
降り出した雪はなかなか止まなかった

辰野
(昭和58年2月)









クモハ53007

クモハ53007
シル・ヘッダ―の無いスマートなフォルム

辰野
(昭和58年2月)









クモハ53007

80系と並んでしばしの休息
この写真を撮影して間もなく80系は引退した
クモハ53007はそれよりも僅かに長く、その4ヶ月後まで活躍した


辰野
(昭和58年2月)